私の名前はL・K・フロッグ。ここ「時と鐘と蔵の街」川越で、おのれを見失い、道を見失い、彷徨い続けている。

リンクス川越事業所、ここは障害福祉事業所、様々な人の「働く」をサポートしている。



ミラー












最近は、ここリンクスで作っている缶バッジが話題になっているそうだ。

例のにわかに流行りの「花手水缶バッジ」。

川越市内に版図を広げている、順調に。

今日も、一台ガチャマシンが巣立っていく。

作業にミスが無いよう、現場監督が目を光らせる。

彼の眼光は蛍光灯の白光を反射した光のスペクトラム。それは「狂気」であり月の暗黒面。


現場監督












原子心母は、あなたがここにいてほしい炎だった。



搬入



クレイジー・ダイアモンドよ降り注げ。



搬入2













われわれは教育はいらない。思想の管理は必要ない。



混入













壁の中の煉瓦と同じくらい、ガチャガチャの中の商品。

私はここにいたことがある。



巨塔




































私はガチャマシンの取り出し口を通って生まれなおした形になるな、違うまい?



観察者③














「最近、L・K・フロッグはハードボイルド路線からブレてるよね」

「そもそも、なぜハードボイルドに傾倒していたか知ってる?」



観察者












「ハードボイルドものの主人公ははぐれモノに相場が決まっているよね。それで、しがらみに縛られずにちょっとした本人なりの義理だったり人情だったりを大事にするんだよ。それで痛い目を見たり、損な役回りをしたり、報われないにもかかわらずね。だからフロッグは、そこに何かしらの自分なりの価値観を持って生きるものというのを感じていたんだと思うね。ニヒリズムに陥ったとか何とか言っている彼のことだから、何であれ価値を信じて生きるものに自分を仮託して、自分の中で失った価値を復活させようとしていたんだと思うんだよね。」

「それじゃあ彼の中では、虚無が優勢ってわけだね。」




観察者②













「でも、どうもそうでもないと思うんだよね。価値を持ってるかのようにあえて振る舞って見せるのも、虚無にあらがうことだとは思うけど、もう一つの経路もこのブログを見ているとほのめかされているように感じるんだよ。」

「と、言いますと?」

「気づかない、最近写真がカラーだろう。ベルリン天使の詩のパロディも出てきたでしょ。シンリシの机の上で、小此木圭吾の本があってさ、それは映画の本だったんだけど、ベルリン天使の詩が解離とか離人感、現実感の喪失と結びつけられて語られていたんだよね。だからさ現実との接触を、官能の賦活を通して、虚無感を払拭しようともがいている感じもするんだよね。」


カエルたち2











「なるほど、虚無と現実感の喪失ね。僕に言わせれば、彼の懐疑主義を何とか良い方向に向かわせるのが良いと思うけどね。」

「そいつぁどういうことだい?」

「いやぁ、大体懐疑主義の行きつくのは、水槽の中の脳の話だったり、世界の実在性がどうこうだったりするわけだろう。思うにすべては情報だという方向に流れていると思うんだよ、そしてその真偽が判定できないとか客観性とは云々とか。でもね、そうだったとしても、情報の整合性というものは問題になると思うんだよね。それで僕に言わせれば整合性こそリアリティと密接な関係があると思うのね。だからさ、感覚的な世界とのつながりも良いんだけど、彼みたいに理屈っぽい奴には、瞬間的な感覚のによる救いはあまり効果が薄かろうと思うんだよ。理屈をこねるのが好きな彼のことだから、整合性をもとにリアリティを回復していくのが良いと思うんだよ。それに彼、コロンボも好きだろう。どぅもつじつまがあわないんです、もう一つだけ聞いても良いですか?なんてぇのも好きそうじゃないか。」


カエルたち3











「なるほどね。面倒くさい奴だね。カエルのくせに」

「カエルのくせにね。」


カエルたち1











「そういうことだから」

「何が?」

to be continued…