私の名前はL・K・フロッグ。ここ「古くて新しい街・川越」で人類を観測している。

リンクス川越事業所。ここは障害福祉事業所、様々な人の「働く」をサポートしている。
10月に入り少しずつ涼しくなってきた。秋が到来しつつあるのかもしれない。
リンクスのメンバー喜んでいる人もいるようだが、急激な気候の変化で調子を崩している方も少なくない。

変温動物の私も、油断はできない。うっかり道端で眠ろうものなら、朝晩の冷え込みにやられて永遠の眠りに陥りかねない。
これまで、あまたの仲間たちを見送ってきた。その季節が来ているということだ。

ああ、まさに冷え込んできている。身体の動きが良くない。キーボードの上を飛び跳ねてキーをたたくのもおっくうだ。
今日は楽をしよう。
下のリンクを見てほしい。私は良く知らないのだが、リンクスと同じような障害福祉事業所の情報を取り扱っているサイトだそうだ。
リンク先は、リンクス川越事業所のブログをまとめてあるページになっている。
シンリシが無い知恵を絞って、ボードゲームやリンクスでの様子についてリポートしているようだ。
当初は私の、人類観測の記録もの掲載していたようなのだが、不適切だということで外された。やはり芸術を理解する選ばれたものは人類の中では希少であることの証左だろう。
シンリシは、”芸術芸術とお高くとまってないで我々大衆にもわかるように書けばよいのに”と馬鹿げたことをつぶやいている。自分が作るのが面倒なので、私に一般向けの文章を書かせたいのだろう。
人類の中でもブコウスキーを高く評価している私である。みんなに向けてわかってもらおうと己を曲げ、表現を工夫することがあり得るだろうか。
ツァラトゥストラも言っているではないか

これが私の存在の仕方だ。
シンリシの奴、ヘンリー・チナスキーやニック・ビレーンを知らないのだろうか。
彼らは社会という個人を溶かす溶媒に決して溶け込むことがない。
シジミの味噌汁を食べた時、咀嚼時に奥歯を砕いた砂、その小石こそが彼らである。
ブコウスキーの作品の―いや彼自身の存在の仕方ですらそうだろうがー本質は、その決して溶け込まず、摩擦を引き起こし、ボロボロ、それが意図したわけでもなく、彼ら自身の自然な姿であり、他の何かになるつもりもない、そんな存在の姿ではなかろうか。
彼らの姿は、何かと一体感を求める日本人の中にあって、私の目には一層光輝いて見える。それは私にとって、グニャグニャとうごめき、まとわりつく日本社会というアコヤガイの中で、いつしか真珠となって輝き始めた異物に他ならなかった。
そんな私がシンリシのそとづらの良さを、内心吐き気とともに眺めているのを知っているのだろうか。
と、
私が何かの視線を感じ、顔を上げると奴がいた。

奴「皆の中でも安定して自分でいられるモノは、個性だの自己だのとわめかない。見たまえ私の個性を、ことさら強調する必要すらない。私は自然体で私であり、私であろうとほっする以前にすでにはるかに私であったし、今後も永劫私であろう。」

「うっせぇわ!」

リンクス川越事業所。ここは障害福祉事業所、様々な人の「働く」をサポートしている。
10月に入り少しずつ涼しくなってきた。秋が到来しつつあるのかもしれない。
リンクスのメンバー喜んでいる人もいるようだが、急激な気候の変化で調子を崩している方も少なくない。

変温動物の私も、油断はできない。うっかり道端で眠ろうものなら、朝晩の冷え込みにやられて永遠の眠りに陥りかねない。
これまで、あまたの仲間たちを見送ってきた。その季節が来ているということだ。

ああ、まさに冷え込んできている。身体の動きが良くない。キーボードの上を飛び跳ねてキーをたたくのもおっくうだ。
今日は楽をしよう。
下のリンクを見てほしい。私は良く知らないのだが、リンクスと同じような障害福祉事業所の情報を取り扱っているサイトだそうだ。
リンク先は、リンクス川越事業所のブログをまとめてあるページになっている。
シンリシが無い知恵を絞って、ボードゲームやリンクスでの様子についてリポートしているようだ。
当初は私の、人類観測の記録もの掲載していたようなのだが、不適切だということで外された。やはり芸術を理解する選ばれたものは人類の中では希少であることの証左だろう。
シンリシは、”芸術芸術とお高くとまってないで我々大衆にもわかるように書けばよいのに”と馬鹿げたことをつぶやいている。自分が作るのが面倒なので、私に一般向けの文章を書かせたいのだろう。
人類の中でもブコウスキーを高く評価している私である。みんなに向けてわかってもらおうと己を曲げ、表現を工夫することがあり得るだろうか。
ツァラトゥストラも言っているではないか
”わたしは奔流のほとりの欄干だ。わたしをつかめる者はつかむがいい!
だが、わたしはあなたがたの松葉杖ではない。”
だが、わたしはあなたがたの松葉杖ではない。”

これが私の存在の仕方だ。
シンリシの奴、ヘンリー・チナスキーやニック・ビレーンを知らないのだろうか。
彼らは社会という個人を溶かす溶媒に決して溶け込むことがない。
シジミの味噌汁を食べた時、咀嚼時に奥歯を砕いた砂、その小石こそが彼らである。
ブコウスキーの作品の―いや彼自身の存在の仕方ですらそうだろうがー本質は、その決して溶け込まず、摩擦を引き起こし、ボロボロ、それが意図したわけでもなく、彼ら自身の自然な姿であり、他の何かになるつもりもない、そんな存在の姿ではなかろうか。
彼らの姿は、何かと一体感を求める日本人の中にあって、私の目には一層光輝いて見える。それは私にとって、グニャグニャとうごめき、まとわりつく日本社会というアコヤガイの中で、いつしか真珠となって輝き始めた異物に他ならなかった。
そんな私がシンリシのそとづらの良さを、内心吐き気とともに眺めているのを知っているのだろうか。
と、
私が何かの視線を感じ、顔を上げると奴がいた。

奴「皆の中でも安定して自分でいられるモノは、個性だの自己だのとわめかない。見たまえ私の個性を、ことさら強調する必要すらない。私は自然体で私であり、私であろうとほっする以前にすでにはるかに私であったし、今後も永劫私であろう。」

「うっせぇわ!」
to be continued...
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