私の名前はL・K・フロッグ。ここ「小江戸、川越」で人類を観測している。
リンクス川越事業所。ここは障害福祉事業所、様々な人の「働く」をサポートしている。
今日は、シンプルに間近に迫ったイベントの告知をしていきたい。
11月9日(土)は『令和5年「障害者習慣の集い」』が開催されます!
リンクスも、物販で参加します。
B型の皆さんが作っている商品、缶バッジや毛糸の小物、レジン細工などを販売予定です。
イベントの告知も終わり、いつもなら平穏な一服を迎える所だが、私の穏やかな夕時は決まって妨げられることになっている。洗濯物を干せば雨が降る。
私が間借りしている机の主、シンリシがやたらと話しかけてくる。
原因は2つの映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎]と「ゴジラ-1.0」ということらしい。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は水木しげるの生誕100周年記念作品だ。
物語は、鬼太郎の誕生の前日譚。呪われた村で繰り広げられる、跡目相続をめぐる事件、そこに巻き込まれていく銀行員の水木と鬼太郎の父。龍賀一族の秘密と鬼太郎誕生へとつながる物語である。
シンリシは、相変わらずの支離滅裂さで映画の断片や感想を伝えてくる。
彼はこの物語に内在する、文化として受け継がれている個人軽視へのアンチテーゼに注目しているらしい。大義や、社会、集団や家族、権力や仕事の前に一人の人間を平気で軽視するD4C:Dirty Dees Done Dirt Cheepを呪いとして、そこからの開放が行われる話になっていると主張している。
確かに、鬼太郎シリーズの主題歌を振り返ってみると、学校も試験も会社も仕事も病気も死もない、といった呑気なものだ。シリアスになり過ぎず、妖怪のようにのんびり楽しく生きることを勧めているとも受け取れなくはない。
原作者の水木しげるは、先の大戦で南方の過酷な戦場を経験している。「水木しげるのラバウル戦記」では理不尽な暴力や飢餓、戦争や大義のためとはいえそんな状況に同胞を送り込んでしまい、命を粗末にしてしまった社会。一方で伸び伸び暮らす現地の人々の生活の様子の対比も見て取れる。そうした水木しげるの背景を考えれば、今回の作品が生誕100周年としてシンリシの言うようなテーマを描いていたとしても疑問は無い。
悪いことにシンリシは、立て続けにゴジラも観て来たらしい。
ゴジラも70周年を迎えたそうだ。
彼は、こちらからも、鬼太郎と同じような側面を受け取ったそうで、シンクロシティだコンステレーションだとやかましい。
「ゴジラ-1.0」
今回のゴジラは舞台が戦後まもなくに設定されている。仁義なき戦いの闇市を思わせるような状況を主人公たちが生きている。こちらの映画も先の大戦の敗戦から始まる。そんな状況にゴジラが現れる。
ゴジラと戦うということは1人で出来ることではない、みんなで立ち向かうしかない。集団での戦いであり、もはや戦争に近いものではないか、という。さらにこの映画では、彼にとってはゴジラとの戦いが、先の大戦と被って見えたらしい。満足な資源や装備がない中でどう戦うのか、絶対に勝てる保証はないのに戦うのか。家族の為、みんなの為に戦うことは悪いことなのか、命を捨ててでも戦うべきなのか、命を捨てないと戦ったことにならないのか、生き残ることはいけないことか、戦って死ぬのは犬死か。ゴジラによる被害は原爆のそれを思わせる。水木しげるの話ではないが、そんな戦いを同胞にさせること、ましてや若い命を特攻させたことはどうなのだろうかということを考えずにいられなかったらしい。
そういった戦争をめぐる色々な感情を刺激されたので名作なのだそうだ。しかし、セリフの臭さ登場人物がしゃべり過ぎること、映像で見せるのではなく、セリフで説明してしまっている点などあったそうだが。
ビックモーター、ジャニーズ、宝塚。戦争は終わって80年近経つにもかかわらず、巨大な組織や社会が個人を踏みにじり続けている日本。世界に目を向けても、相変わらず戦争が続いている昨今。こんな情勢の中、この二つの映画をみて何らかのカタルシスを得たというのは無理もないことかもしれない。
というわけで、こういった映画評をきかされているのだ。これ以外にも、「日本的マゾヒズム」がどうこうと、放っておくと延々と話が続く。
しかし、私がそれを聞かない場合、彼の語りの矛先はリンクスの利用者の皆に向きかねない。
”誰かが貧乏くじを引かねばならない”
ここにはゴジラと戦う以上のヒロイズムがある。
to be continue......
リンクス川越事業所。ここは障害福祉事業所、様々な人の「働く」をサポートしている。
今日は、シンプルに間近に迫ったイベントの告知をしていきたい。
11月9日(土)は『令和5年「障害者習慣の集い」』が開催されます!
リンクスも、物販で参加します。
B型の皆さんが作っている商品、缶バッジや毛糸の小物、レジン細工などを販売予定です。
イベントの告知も終わり、いつもなら平穏な一服を迎える所だが、私の穏やかな夕時は決まって妨げられることになっている。洗濯物を干せば雨が降る。
私が間借りしている机の主、シンリシがやたらと話しかけてくる。
原因は2つの映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎]と「ゴジラ-1.0」ということらしい。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」は水木しげるの生誕100周年記念作品だ。
物語は、鬼太郎の誕生の前日譚。呪われた村で繰り広げられる、跡目相続をめぐる事件、そこに巻き込まれていく銀行員の水木と鬼太郎の父。龍賀一族の秘密と鬼太郎誕生へとつながる物語である。
シンリシは、相変わらずの支離滅裂さで映画の断片や感想を伝えてくる。
彼はこの物語に内在する、文化として受け継がれている個人軽視へのアンチテーゼに注目しているらしい。大義や、社会、集団や家族、権力や仕事の前に一人の人間を平気で軽視するD4C:Dirty Dees Done Dirt Cheepを呪いとして、そこからの開放が行われる話になっていると主張している。
確かに、鬼太郎シリーズの主題歌を振り返ってみると、学校も試験も会社も仕事も病気も死もない、といった呑気なものだ。シリアスになり過ぎず、妖怪のようにのんびり楽しく生きることを勧めているとも受け取れなくはない。
原作者の水木しげるは、先の大戦で南方の過酷な戦場を経験している。「水木しげるのラバウル戦記」では理不尽な暴力や飢餓、戦争や大義のためとはいえそんな状況に同胞を送り込んでしまい、命を粗末にしてしまった社会。一方で伸び伸び暮らす現地の人々の生活の様子の対比も見て取れる。そうした水木しげるの背景を考えれば、今回の作品が生誕100周年としてシンリシの言うようなテーマを描いていたとしても疑問は無い。
悪いことにシンリシは、立て続けにゴジラも観て来たらしい。
ゴジラも70周年を迎えたそうだ。
彼は、こちらからも、鬼太郎と同じような側面を受け取ったそうで、シンクロシティだコンステレーションだとやかましい。
「ゴジラ-1.0」
今回のゴジラは舞台が戦後まもなくに設定されている。仁義なき戦いの闇市を思わせるような状況を主人公たちが生きている。こちらの映画も先の大戦の敗戦から始まる。そんな状況にゴジラが現れる。
ゴジラと戦うということは1人で出来ることではない、みんなで立ち向かうしかない。集団での戦いであり、もはや戦争に近いものではないか、という。さらにこの映画では、彼にとってはゴジラとの戦いが、先の大戦と被って見えたらしい。満足な資源や装備がない中でどう戦うのか、絶対に勝てる保証はないのに戦うのか。家族の為、みんなの為に戦うことは悪いことなのか、命を捨ててでも戦うべきなのか、命を捨てないと戦ったことにならないのか、生き残ることはいけないことか、戦って死ぬのは犬死か。ゴジラによる被害は原爆のそれを思わせる。水木しげるの話ではないが、そんな戦いを同胞にさせること、ましてや若い命を特攻させたことはどうなのだろうかということを考えずにいられなかったらしい。
そういった戦争をめぐる色々な感情を刺激されたので名作なのだそうだ。しかし、セリフの臭さ登場人物がしゃべり過ぎること、映像で見せるのではなく、セリフで説明してしまっている点などあったそうだが。
ビックモーター、ジャニーズ、宝塚。戦争は終わって80年近経つにもかかわらず、巨大な組織や社会が個人を踏みにじり続けている日本。世界に目を向けても、相変わらず戦争が続いている昨今。こんな情勢の中、この二つの映画をみて何らかのカタルシスを得たというのは無理もないことかもしれない。
というわけで、こういった映画評をきかされているのだ。これ以外にも、「日本的マゾヒズム」がどうこうと、放っておくと延々と話が続く。
しかし、私がそれを聞かない場合、彼の語りの矛先はリンクスの利用者の皆に向きかねない。
”誰かが貧乏くじを引かねばならない”
ここにはゴジラと戦う以上のヒロイズムがある。
to be continue......
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