こんにちは、リンクス川越事業所のカエルです。
カエル界のマリノフスキーとの呼び声も高まっている私ですが、相変わらず人間界に潜伏中です。
また、人間たちの奇妙な風習を発見しました。
名前は「バレンタイン」というそうです。人々がお互いにモノを贈与するということなのですが、カカオの種子を加工し、砂糖などを混ぜて練り固めた菓子(人々はチョコレートと呼ぶ)がよく選ばれるそうです。
私のインフォーマント(情報提供者)によると、主に女性から贈与するものだそうで、贈与を受けたものは後に、「ホワイトデー」という日に返報する慣習になっているそうだ。
私も、先日市役所での販売というものを目にしたので、貨幣による、モノの等価交換ということは理解出来たつもりでいたのですが、今回の現象はまた様相を異にしているようだ。
「買う」ということは、われわれにも理解しやすい。バッタを食べるのには、草むらに行く必要がある。何事も払うべき「代償」があるというのは、我々カエルを含む、自然の理でもある。
しかし、「贈与」というと少しく難解である。我々は、アナロジーや比喩を駆使して理解していく必要がある。
そもそも我々は、人類のような傲慢・強欲さがないので「所有」ということを理解するのに苦労させられた。
縄張りとのアナロジーで、何とか所有の概念を理解できたが、人類においては、ある意味モノ、それも実在しないモノにまで、「なわばり」の概念を広げているようなのである。それをお互いに了解しあい、基本的には侵犯しないということらしいのだ。
その了解すべき相手方の縄張りを「権利」と呼ぶそうで、人間社会で生きていく上では、結構重要らしいのだ。
そして、「贈与」であるが、自分からその「権利」を放棄し、相手の「なわばり」に繰り入れるということであるので、「この強欲な人類がそんなことするわけない」と、私も実際に見るまでは信じられなかったのだが、確かにあるのである。
これをどう理解すべきか、今、我々ケロリストの間では、議論百出である。その一端をご紹介しよう。
※ケロリストーカエルによる世界の変革をもくろむもの達の総称。
サブカルチャー等に時折現れることがある。「ど根性ガエル」は有名。
ー人類は強欲であるから、自分から権利を放棄するなどありえない、そこには、隠れた返報があるのだー
ー元来人類ほど破滅的な種族はいない、その破壊性は我々別種族さえ巻き込むほどである。「贈与」とはまさに人類の「破滅への意志」に他ならない。人類自身、「タナトス」などという概念を使用しているではないか。かれらは自ら「権利」を主張しては放棄し、無限におのれの縄張りの破壊を繰り返すのだー
ー「贈与」ほど人類らしい行動はない、本来だれのものでもないモノを、自分たちの群れで勝手に認め合って「所有」し、さらにそれを「贈与」という形で相手に渡すに至っては、「お前にこれを所有させてやろう」と言っているも同じである。つまり、これは傲慢な人類における「傲慢さ」の最高の表現方法なのだー
その他、人間の社会性ということから、理解しようという向きもあるが、それは人間に好意的過ぎるのではないか、とケロリストの中では批判するものも多いのが現状である。
私としては、人間たちとの交流を繰り返すうち、情が移っていないと言えばうそになる。人類を見限りたくないのが正直な所だ。幸い、まだ帰還命令は下っていない。まだ、人類についての理解を深めていきたいところだ。
ところで、今日のリンクスの様子ですが。
今日の座学では、コミュニケーションについて色々考えているようでした。
人類のコミュニケーション、なかなか興味深いものがあります。
しかし、人類自身も「コミュニケーション」に苦労しているとは。
カエル(茶)
「ボードゲームでも、伝える練習などやっているね。」
カエル(ピンク)
「あなたも、やった方が良いよ」
カエル(茶)
「どういう意味・・・・・」
カエル(ピンク)
「・・・・・・・・・。」
βρεκεκεκὲξ κοὰξ κοάξ,
カエル界のマリノフスキーとの呼び声も高まっている私ですが、相変わらず人間界に潜伏中です。
また、人間たちの奇妙な風習を発見しました。
名前は「バレンタイン」というそうです。人々がお互いにモノを贈与するということなのですが、カカオの種子を加工し、砂糖などを混ぜて練り固めた菓子(人々はチョコレートと呼ぶ)がよく選ばれるそうです。
私のインフォーマント(情報提供者)によると、主に女性から贈与するものだそうで、贈与を受けたものは後に、「ホワイトデー」という日に返報する慣習になっているそうだ。
私も、先日市役所での販売というものを目にしたので、貨幣による、モノの等価交換ということは理解出来たつもりでいたのですが、今回の現象はまた様相を異にしているようだ。
「買う」ということは、われわれにも理解しやすい。バッタを食べるのには、草むらに行く必要がある。何事も払うべき「代償」があるというのは、我々カエルを含む、自然の理でもある。
しかし、「贈与」というと少しく難解である。我々は、アナロジーや比喩を駆使して理解していく必要がある。
そもそも我々は、人類のような傲慢・強欲さがないので「所有」ということを理解するのに苦労させられた。
縄張りとのアナロジーで、何とか所有の概念を理解できたが、人類においては、ある意味モノ、それも実在しないモノにまで、「なわばり」の概念を広げているようなのである。それをお互いに了解しあい、基本的には侵犯しないということらしいのだ。
その了解すべき相手方の縄張りを「権利」と呼ぶそうで、人間社会で生きていく上では、結構重要らしいのだ。
そして、「贈与」であるが、自分からその「権利」を放棄し、相手の「なわばり」に繰り入れるということであるので、「この強欲な人類がそんなことするわけない」と、私も実際に見るまでは信じられなかったのだが、確かにあるのである。
これをどう理解すべきか、今、我々ケロリストの間では、議論百出である。その一端をご紹介しよう。
※ケロリストーカエルによる世界の変革をもくろむもの達の総称。
サブカルチャー等に時折現れることがある。「ど根性ガエル」は有名。
ー人類は強欲であるから、自分から権利を放棄するなどありえない、そこには、隠れた返報があるのだー
ー元来人類ほど破滅的な種族はいない、その破壊性は我々別種族さえ巻き込むほどである。「贈与」とはまさに人類の「破滅への意志」に他ならない。人類自身、「タナトス」などという概念を使用しているではないか。かれらは自ら「権利」を主張しては放棄し、無限におのれの縄張りの破壊を繰り返すのだー
ー「贈与」ほど人類らしい行動はない、本来だれのものでもないモノを、自分たちの群れで勝手に認め合って「所有」し、さらにそれを「贈与」という形で相手に渡すに至っては、「お前にこれを所有させてやろう」と言っているも同じである。つまり、これは傲慢な人類における「傲慢さ」の最高の表現方法なのだー
その他、人間の社会性ということから、理解しようという向きもあるが、それは人間に好意的過ぎるのではないか、とケロリストの中では批判するものも多いのが現状である。
私としては、人間たちとの交流を繰り返すうち、情が移っていないと言えばうそになる。人類を見限りたくないのが正直な所だ。幸い、まだ帰還命令は下っていない。まだ、人類についての理解を深めていきたいところだ。
ところで、今日のリンクスの様子ですが。
今日の座学では、コミュニケーションについて色々考えているようでした。
人類のコミュニケーション、なかなか興味深いものがあります。
しかし、人類自身も「コミュニケーション」に苦労しているとは。
カエル(茶)
「ボードゲームでも、伝える練習などやっているね。」
カエル(ピンク)
「あなたも、やった方が良いよ」
カエル(茶)
「どういう意味・・・・・」
カエル(ピンク)
「・・・・・・・・・。」
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ブレケケケックス コアックス コアックス
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