んにちは、リンクス川越事業所のカエルです。

地球の悩みの種であるところの人類、それを理解するためのフィールドワークは続いております。

LINE_ALBUM_ブログ用_230222333最近インフォーマントともだいぶ信頼関係が出来てきて、色々な話を聞くことが出来るようになってきている。まぁ、いわゆるラポールが築けたといって良いかもしれない。


 彼も警戒心が薄れたのか、仕事場面にも同席もさせてもらえていることも多い。というより、インフォーマントが他のリンクスの人間と話をしている所に私も席を同じくしていたわけだが、そのインフォーマントによると、話をすることそれ自体が仕事上重要だというのだ。

他のケロリストは「そんな非生産的な仕事きいたことがない、騙されているのでは」といった声もあったのだが、私には「ここにはどうも何かある」と思えた。
 
 それにこのインフォーマント、愉快な男ではあるのだが、カエルを欺くほどの知性は感じられないのだ。現に彼に「なぜ話を聞くのが重要なのだ」と疑問をぶつけてみたのだが、要領を得た回答は得られなかった。

 この男、自分は「しんりし」だの「Psychologistだ」などとうそぶいているが、なかなかどうして、こだわりは強いし、どことなく浅はかで、車のカギを借りるとそのままポケットに入れて持って帰ってしまったり、何かというと「ビューティフォー」などとつぶやいている、少しおかしいやつである。
 私は彼の話は”話半分”に聞くことにしているのだが、苦し紛れに飛び出た単語で「オープンダイアローグ」というものがあった。これは少し気になったのだが、彼の説明は相変わらず要領を得ない。
 仕方がない、自分で調べるまでである。結局、良い仕事がしたければ自分でやるしかないのだ。

 

オープンダイアローグというもの

 
 オープンダイアローグというのは、人類の社会で行われている治療法の一種だそうだ。何を治療するのかというに。対象は、初めは精神疾患を患った人だったそうだが、現在では幅も広がってきているらしい。

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まず、主催するメンバーは2,3人のチームで、その社会でそういった問題を扱うのに適していると認められたメンバーということだ。
 
 具体的な進め方は、チームが、一つの部屋に、対象となる本人、家族、関係者を招いて輪になって座る。場所は、チームが所属する機関の一室であったり、対象の人の自宅であったりと、様々らしい。

輪になって座ったチームを含む全員は、何を行うのかというと、対話を行うというのである。一回の対話は1時間くらいであろうか。それを何度でも、問題となる状態が終わるまでで対話は繰り返されるというのだ。

 詳しく話すといろいろと注意事項などもあるのだが、ここでは深入りはしない。

 それよりも私はこれらを調べている時に、
ある儀式を思い出したのである。それは、「イソマ」と「ウブワンウ」である。


 

「イソマ」と「ウブワンウ」

 

それらは、ヴィクター・W・ターナーの「儀礼の過程」において紹介されている、中央アフリカのンデンブ族の儀式である。ターナーは「儀礼の過程」の中で、それらの儀式の観察を行い、そこに出てくる豊かな象徴の意味について考察を行っている。

 この本、後半の「通過儀礼」に関わる部分では、リミナリティとコムニタスの概念が出て111111きて興味深いものである。ケロリストの仲間でも、人類のいわゆる学校というものをリミナリティとの関連で論じ、”スクールカースト”というものを研究するものもいるのだが、それはまた別の機会に。

 「イソマ」「ウブワンウ」であるが、共同体の成員が、ある種の不幸に見舞われている時に、
親族や共同体が集い、儀式を執り行うというのだ。

 そこでは、たとえば、固く頑丈な木が、”丈夫さ””健康”を象徴するものとして、または、鋭いとげをもつ木は”捕える”力を象徴するものとして、それぞれ薬に使われるなど、カエルのわれわれからみると呪術的・魔術的ともいえるような発想や、さまざまな象徴的な身振りが繰り広げられるのだ。
 
 この呪術的な所は、私が今潜入中のジパングでも、ニシンの卵を食べて多産や子孫繁栄をのぞんだり、「まじない食」や”縁起”など、数多く観察される。個蛙的には、もはや人類の特徴なのだろうと感じている。

 このような人類の儀式であるが、私が注目したいのは、ターナーが述べている以下の主張である。

 「これらの薬類が、有利な情況の下で使われるときに、著しい心理的効果を生むことは疑いえない事実である。不幸な個人のしあわせに対する集団の関心の象徴的な表現、それにともなってかの女のために動員される“よき”品物のひと揃い、そして、生と死の宇宙的秩序のプロセスの象徴と関連づけられた個人の運命―これらの事は、実際のところ、われわれにとって単に“理解しがたい”なにかにすぎないものであろうか。」と。



LINE_ALBUM_ブログ用_230221222 わたしがオープンダイアローグを調べていて思い出したのは、以上の一説だったのである。
 ”共同体が個人の幸せに対する関心をもち、みんなで一堂に会して何かをおこなう”のである。”それが”対話”だった場合どうなるであろうか”というわけである。

 

 今回は踏み込まないが、オープンダイアローグの平等な立場で対話するというところなど、リミナリティの特徴とも関連して考察したいところは多い。  
 
 紙幅の関係上残りは、IKA(International Kerolist Assosiation:国際ケロリスト連合)35回大会で発表しようと思う。



福祉の基本?

 もとはと言えば、この調査、「なぜ話を聞くのが重要なのか」という疑問、インフォーマント「しんりし」の当てにならなさから始まったのであった。

 私の今回の調査での、一応の終着点としては、

 話を聞くことは、”共同体の成員である個人の幸福に関心をむける”ということの表現であり、このネグレクト社会ともいえるほどの無関心はびこるジパング。これだけ注意を向けられなければ”セルフネグレクト”にだってなるのもうなずけるジパングにおいて、それは、やはり重要ということかもしれない。
 
 そしてこの”共同体が個人の幸福に関心をむける”のが福祉の基本であったとするなら、福祉の増進はわれわれカエルにとって有益である。それは、IKAの前身であるTAKO(Toads Assosiation of Kerolist Organization:ヒキガエルによるケロリスト組織連合
※覚えにくい方はイカの前身がタコと覚えてもらえばよい)の一部が掲げていた、”人類の共感性を小動物にも拡大し、カエル族の存続を図る”という思想ともかさなるものである。

 これを、例のインフォーマントにどう思うか聞いてみた。まぁ腐っても「しんりし」というやつか、ちゃんと終わりまで私の話を、ふんふん聞いてはいた。しかし根が軽薄なのか、聞き終わったかと思うと、「あ、そうそう、リスペクトだよね」と。
 
111111111 このインフォーマントにかかると、せっかくの私のアイディアも、ぼやけたものになってしまう気がする。私はこいつの、こういう所はあまり好きではない。しかし、彼は人間である、カエルに求めるほどのものを人間に求めてはいけない。期待したこちらが馬鹿なのだ。

 まぁ、しかし、彼のいうのも全く的外れという事ではないと思う。人類がわれらカエル族の存亡に、関心を向けたとて、ガラス水槽に入れてみたり、”保護”の名のもとに”管理”されるのはまっぴらごめんなのである。このブログを読むようなハイセンスかつ洗練された方々にあっては、「パターナリズム」の危うさは、先刻ご承知の事として、われわれケロリスト一同期待しているところである。





 
さあ、そろそろ本題に入りましょう。
最近のリンクス川越事業所の様子ですが

ボードゲームでの就労を目指した訓練は平常運転。


 そういえば、明日23日の祝日の「レクリエーション」LINE_ALBUM_ブログ用_2302211111。先日メンバーさんたちが話し会って、何をやるのか決めていました。

 内容は、カエルのあっしからは、言えませんや。ただ、すごい香辛料の香りがするの確かですな。

 今日は水曜日なので11時からは座学がありました。言語化、話すことの大切さ、その通りですな。


それでは

「βρεκεκεκὲξ κοὰξ κοάξ,」





参考文献

「まんが やってみたくなるオープンダイアローグ」まんが:水谷緑 解説:斎藤環 医学書院 2021.3.15

「儀礼の過程」ヴィクター・W・ターナー著 冨倉光雄訳 ちくま学芸文庫 2020.12.10

「オープンダイアローグがひらく精神医療」斎藤環 日本評論社 2019.7.20

「オープンダイアローグとは何か」斎藤環著 医学書院 2015.7.10